little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

お知らせ

いらっしゃいませ、こんにちは

こちらは¥ENのブログです。

普段はTwitterに棲息していますが

140文字で収まらないことだったり

ツイートのログをこちらに書き留めたり

過去の記録や小説を載せたりしてます。

  ◆

【参加予定イベント】

8/2(日)十忍十色難波の段(インテックス大阪『little cloudberry』でサークル参加

9/21(祝)四五六忍!(東京流通センター『little cloudberry』でサークル参加

 

 キミもイベント会場で¥ENさんと握手!

◆ 

 拙い文章しかありませんが、よかったらゆっくりしていってね

 ¥EN 拝

私のいちばん長い日(1)

昭和二十六年の秋の澄み渡った青空に、黄色がさして、黄昏が迫ってくる時である。

新川駐在所の加藤巡査が、ひょっこりやって来た。

「黒柳さん、えらいことになったぜ。今警視庁が無電(=無線電話)で県警へ、県警から電話連絡で碧南署へ通報が入り、わしが飛んで来た。東京行きだ。準備の都合もあるだろうから、明日の朝一番で行かせ。これが命令の写しだ。」

 

********************

        命   令

             陸軍建技少佐 黒柳伴治

  

右の者戦犯参考人として、直ちに連合軍総司令部マニラ法廷へ出頭を命ず。

ただし食糧一週間分を携行し、警視庁戦犯係に連絡をとるべし。

 

       昭和二十六年十月一日

      連合軍最高指揮官マッカーサー元帥

 

********************

 

これは私にとって、まさに『晴天の霹靂』であった。

 

********************

 

昭和十九年五月七日、私はフィリピン第十四方面軍第三開拓勤務隊長に補せられ、朝鮮平壌第十三師団において次の新編成により部隊は第十四方面軍司令官の指揮下に入った。ところが、フィリピン向けの輸送船はなく、平壌に四ヶ月、台湾高雄に三ヶ月、内待機を余儀なくされ、部隊の訓練に励みながら太平洋戦争の戦局を見詰めていた。

 

第十四方面軍第三開拓勤務隊編成 

任務
占領地を開拓し現地自活の為の糧・生虜等の各部隊への資源の補給に万全を期す 

編成
本部:隊長、少佐、副官少部中尉、軍医見習士官、下士官五〇名

第一中隊:農耕作業
     中隊長(生計中尉)、下士官一九〇名
     脱穀機その他農器具一式携行

第二中隊:牧畜作業
     中隊長(生計中尉)、下士官一九〇名
     牧畜用器具一式携行

第三中隊:漁猟作業
     中隊長(生計中尉)、下士官一九〇名
     漁具一式携行

第四中隊:食品加工作業
     中隊長(生計中尉)、下士官一九〇名
     味噌作大樽、醤油縡機等食品加工機一式携行

第五中隊:建設作業
     中隊長(建技少佐)、下士官一九〇名
     大工道具等建設工具一式携行 

装備:三八式歩兵銃三〇〇丁、銃弾 

兵員総数:一〇〇〇名

私のいちばん長い日(2)

昭和十九年後半ともなると、太平洋戦争の緒戦に日本軍が占領したサイパンテニアン、グァムなど日本本土の玄関口といわれたマリアナ群島の重要拠点が次々に玉砕又は撤退と失われ、軍の憂色は日を追って濃くなってきた。フィリピン戦線では、第三艦隊ハルゼー大将、マッカーサー大将指揮のもとに十月二十日艦艇三百十四隻に護衛され、四百二十隻の輸送船に分乗した米軍(六箇師団基幹)二十万三千人は、折からの台風を察してレイテ島タクロバンおよびドゥラグに上陸した。

マッカーサー大将は、巡洋艦ナッシュビル』に乗って上陸の総指揮をとり、午前二時、海岸に近付けた艦上のマイクから、フィリピン・ゲリラ部隊甲通信波長で放送した。

「こちらは<自由の声>放送。私はマッカーサー大将である。フィリピン市民諸君、私は帰ってきた。我が軍は、米比両国民の地で聖められたフィリピンの土の上に、再び立っている」

マッカーサー大将は三年前、開戦時にフィリピン攻略を担当した本間雅晴中将指揮の第十四方面軍に追われ、「アイ・シャル・リターン(私は帰ってくる)」の一言を残してオーストラリアに脱出した。今、その公約を果たしたのである。

「アイ・ハブ・リターンド(私は帰ってきた)」――と、マッカーサー大将は持ち前の詠嘆調の発声を更にうち震わせて、繰り返し叫んだ。

 

十月二十四、五日、我が連合艦隊は空母四隻を基幹とする第三艦隊(小沢治三郎中尉)の『大和』『武蔵』をはじめ、戦艦七隻、重巡十一隻を合わせ、第二艦隊(栗田建男中尉)と重巡二隻を持つ第五艦隊(志摩満英中尉)など、その総力をあげてレイテ島沖の米機動部隊に決戦を挑んだ。

大本営は敵輸送船団の壊滅を含む大戦果を発表したが、米艦隊に与えた大打撃は、小型空母駆逐艦の各三隻の沈没に過ぎなかった。逆に、我が連合艦隊は戦艦三隻、空母四隻、重巡六隻、軽巡三隻、駆逐艦八隻、潜水艦六隻を失う大損害を受けていたのである。

大十四方面軍事司令官山下奉文大将は、十二月十五日、ルソン島南部に隣接するミンドロ島サンホセに米軍が上陸するに及び、レイテ作戦中止を決意し、レイテ島撤退を認めざるを得なかった。

南方軍『捷一号作戦』計画書では、『地上決戦はルソン地区にこれを求せし』と定めている。即ち軍はルソン島で地上決戦をおこなう決意であった。