little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

私のいちばん長い日(9)

昭和二十六年十月三日、私は東京明治ビル連合軍総司令部へ一番列車で出発した。満員列車だったが浜松で近くの席が空いて腰掛けられた。

私は瞑想にふけり続けた。家族の行く末が走馬灯となる。

戦地では直接指揮した本部と第一、第二中隊で戦犯に引っ掛かるようなことをした者は居なかったが、ひょっとすると分遣の第三、第四、第五部中隊で何があったか。隊長が部下の責任を取るのは当たり前だ。重労働二十年!重労働三十年!

列車が富士の駅あたりを走っている。これが見納めになるかも分からない。

窓の外を見たが、雲で富士は見えなかった。

 

私は富士の山麓の、あの緑の松の木になりたい。

私は『私は貝になりたい』という小説を読んだことがあるし、絞首刑で十三階段を昇って行くフランキー堺の『私は貝になりたい』の映画も見た。あのフランキーの心境がそのまま今の私だ。

 

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警視庁の戦犯係長(警部)に会って、GHQ(=連合国軍最高司令官総司令部)の入門証を貰った。あとで連絡をして下さいと懇切丁寧な物腰の人だった。

総司令部の正面高くに掲げられた米国旗の色が目に沁みた。

 

マニラ法廷へ出廷した。大きな部屋の正面のテーブルに米軍の軍服を着たフィリピン人少佐の検事が一人だけ。横に日本人通訳がおり、その前に着席させられた。

まず、人定尋問があり、次いで検事は「君の部隊のルソン島での行動を詳しく述べよ」と言う。
私は、当時の部隊の行動を順を追って詳細に説明した。私の話を黙って聞いていた検事が問う。

「君はマニラに居たことがあるか」
「いいえありません」
「マニラに居たことがあるだろう」
「いいえ、私はバナウェで武装解除を受けて米軍トラックでモンテンルパ収容所へ行くときにマニラの町を素通りしただけで、マニラは全然知りません」

検事はしばらく沈黙していたが、静かに口を開いた。
「ザッツ・オール(これで終了致します)。
 エクスキューズ・ミー(御迷惑をお掛けしました)。
 オッケー(お引き取り下さい)。」
通訳が「もうよろしい、どうぞお帰り下さい」と付け加えた。

虎の尾を踏む思いで入廷したが、まさに虎口を脱した感激で一杯だった。

 

帰りに警視庁戦犯係長に会って一部始終を話したら、係長が「誠に申し訳ない。実は、類似名で貴方を呼んだんです。マニラの戦犯事件に関係ある陸軍少佐『車谷英治』が横須賀に上陸したことは乗船名簿で分かっているが、地下に潜っていくら探しても何処にいるかさっぱり分からない。司令部では「早く本人を探し出せ」という旨の催促の厳令がしきりで、切羽詰ってあなたを類似名で読んだ訳です。どうぞお許し下さい。」と言うではないか。

『車谷英治』『黒柳伴治』
ローマ字で『KURUMATANI EIJI』『KUROYANAGI BANJI』。
頭文字の『車』の『KUR』と『黒』の『KUR』、また末尾の『英治』『伴治』の『JI』が同じである。

係長は「軍事輸送司令部に連絡が取れるから、そこで切符を貰ってお帰り下さい。」と言った。そして最後まで「お気の毒でした」を繰り返していた。

 

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帰りの列車。窓の外を見ると、富士が悠久の姿を現している。
やっぱり富士は美しい。 

私の心も今や『青天白日』そのものであった。 

 

<終>