little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

私のいちばん長い日(8)

九月二十七日、部隊は山を下り、麓のバナウェの米軍により、武装解除を受け、直ちにトラックでモンテンルパ=(ムンティンルパ=マニラ南郊の郊外都市)のニューピリピッド収容所に収容された。ルソン島合戦からの将校五〇〇名が同キャンプだった。

 

『戦犯』という言葉は太平洋戦争で初めて出来た言葉だが、収容所門衛で毎日十数人の土民(=現地住民)が押し掛けて来て首実検が続いた。我々は戦々恐々で過ごした。例えば、土民が『青木』という隊長を探している。するとキャンプの中から青山、青田など『青』に字の付くが全部引っ張り出されて収容所長立ち合いのもとに対峙させられる。そして「これだ」と指差されると、翌日キャンプから消えて別の戦犯収容所に移される。

山下奏文大将は、党収容所内の一部の、有刺鉄線柵に囲まれた戦犯収容所に西山参謀長と一緒に居られ、毎朝連れ立って散歩しておられるのをお見受けしたが、やがて軍事裁判に掛けられ、絞首刑が確定したことを、収容所内新聞の報道で知った。連名で除名嘆願書を米軍に提出することも出来たが、我が身の行く末も分らないからとて中止に定まった。

 

フィリピンの敗け戦では、戦犯は有り得ないと思う。全土民がゲリラ化して奉銃・自動小銃を持ち、ニッパハウスの梯子を降りて用便に行くと狙撃されて戦友がやられる。数名の兵を司令部に出しても、どこかへ蒸発してしまう。食うに食も無く、気は立ってくる。土民に対して敵愾心の権化となる。喰うか喰われるかの瀬戸際では、土民を見ればゲリラとしてやっつけなければならない。

山下大将の絞首刑ははこうした部下の殺戮の責任をとらされることであり、戦争に勝つために国に忠誠であればあるほど戦犯として裁かれた人は数え切れないほどある。

 

三ヶ月の収容所生活が終わり、十二月二十九日、引き揚げ船に乗船し、マニラ港を出帆、翌年一月八日の朝、横須賀港に上陸する為、駿河湾に入った。

甲板に立って、美しい霊峰・富士の荘厳な姿を、生きて再び見た。

俺はこれで祖国へ帰れたのだ。嬉し涙に咽びながら。

だが待て、戦陣訓の『生きて虜囚の辱めを受けず』ではなく、俺は戦争に負けて俘虜となって帰るのだ。一〇〇〇名の部下の内戦死、行方不明二〇〇名戦病死二五〇名、四五〇名の多きを失ったのだ。これらの遺族の行く末はどうなるであろう。私は祖国に向かって手を合わせ、黙祷を続けていた。