little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

私のいちばん長い日(3)

山下大将着任当時は、第十四方面軍の兵力は九個師団、三個師団、約二十三万人を数えた。ところがセブ島ミンダナオ島、レイテ島などに十万人が分散し、残る十三万人はルソン島にいたが、これもルソン各地に分散して、その勢力はあきらにも違いすぎた。山下司令部・武藤章参謀長の観察では、ルソン島における決戦は次の諸点から不可能とみられた。

(一)制空権を奪われ、しかも優勢を予想される米軍と平地で合戦すれば、山下軍は一気に殲滅されるに違いない。

(二)機動作戦も不可能である。輸送力は全島に散在する約三千台のトラックだけで、一個師団以上の機動には数不足である上に自動車ガソリンがひどく少なかった。

(三)食糧不足も甚だしい。これまでに仏印(=フランス領インドシナ)やタイから米(コメ)を輸送していたが、米潜水艦のおかげで交通路は途絶に近く、第十四方面軍の主食は十一月下旬から一日一回四〇〇グラムに減らさねばならなかった。市街中心の戦闘は、この面からも無理といえる。

(四)フィリピン市民の対日感情は、開戦当時から悪く、ゲリラはほぼ全土に跳梁している。特に米軍のレイテ上陸以後その活動は活発となった。

 

黒柳部隊は昭和十九年十二月二十六日、三隻の駆逐艦に分乗して高雄港を出帆しルソン島に向かった。これが恐らくフィリピン向け最後の船団だといわれていた。魔のバシー海峡(台湾―比島間)で敵の空襲、魚雷攻撃を受けるのは必至であると海没は覚悟していた。

十二月二十九日、ルソン島リンガエン港北サンフェルナンド港に奇跡的にも無傷で入港した。北サンフェルナンド港は周囲山に囲まれた港町で、ビルなども立ち並び我が軍の兵墓地や野戦病院もある我が軍の拠点で、リンガエン港地区を守るは第十三師団(西山福太郎中将)であった。

 

翌三十日、停泊司令部から要員が来て揚陸に着手した。終日かかって部隊全員一〇〇〇名が上陸を完了した。

 

翌日三十一日、資材の揚陸を開始する手筈であったが、揚陸作戦を開始する午前十時、敵グラマン艦戦機十数機が飛来急襲し、碇泊中の我が輸送船三隻を爆撃、あっという間に撃沈され、貴重な携行資材は船もろとも跡形もなく消え去った。我が隊は本当の丸腰になってしまった。私は港の背後の山麓に舞台を分散野営と定めて軍司令部への連絡を急いだ。

私のいちばん長い日(4)

昭和二十年一月六日から米軍の艦戦機の爆撃が熾烈を極めて、艦砲射撃が始まった。サンフェルナンド港の建物は吹っ飛び、猛煙が辺り一帯を包んだ。私は初めて軍司令部がかねて想定していた米軍の敵前上陸がここリンガエン港であることを知った。時に山下司令部は、マニラ郊外部約十キロのフォートマッキンレー基地から、山嶽地帯の高地にあるフィリピン市民の避暑地バギオに移っていた。部隊は各中隊ごとに港の背面をふた山越したバギオに通ずる国道の基点付近に分散撤退を命じた。

 

一月九日朝、私と部隊本部はふた山目の頂上に立っていた。ひょいとリンガエン港の沖を見て思わず目を疑った。戦艦、空母巡洋艦駆逐艦、輸送船が、それこそ何百隻も停泊し、上陸用舟艇が雲霞の如く白波を蹴って港めがけてやって来る。

私は帝国海軍の観艦式の美しさに感動したことがあったが、それと同じように胸が押し潰される思いであった。今日見る敵の艦隊その物量の重圧の荘厳さに美学を感じ、危機感をも忘れて夢見心地であった。これが物量の美学という心持ちであった。

突然本部全員がひっくりかえった。伏せたのが爆風に吹っ飛んだのか分らない。私は鼓膜が破れる様な轟音に吹っ飛んだような気がする。一〇〇メートル先で艦砲が炸裂したのだ。周囲の太木が引き裂け、山は丸坊主になっていた。

港の守備隊は軍司令部が水際作戦の命令を受けていたが、砲撃弾の傘の下に進む米軍に対しては正に鎧袖一触、蟷螂の斧の如く立ち向かうも一気に殲滅された。

 

一月九日、三日間に及ぶ援護爆撃ののち、二千百隻の上陸用舟艇を連ねてリンガエン港に来攻米軍は、ウォルター・クルーガー中尉指揮の第六軍の主力で、第六、第四十三師団を基幹とする第一軍団第三十七、第四十師団から成る第十四軍団、他に予備の第二十五師団その他計二十万近くである。マッカーサー元帥(12月18日に元帥に任官された)はさらに後続として第三十三、第三十八、第四十一、第七十七歩兵師団、第十騎兵師団、ロバート・アイケルバーガー中将の第八軍の一部など約二十万人を用意していた。これは後日、軍司令部情報として私は知った。

私は部隊集結地において、作戦参謀長から初めての軍命令を受け取った。
「第十三開拓勤務隊長に、敵信仰前面における各部落(=集落)において、米穀を追加で徴発すべし。輸送部隊にすべし。輸送司令部に引き渡すべし」

各中隊ごとに軍票(ペソ)の札束で相当量の米穀を徴発した。輸送がきかず半分残したのは惜しかったが、上陸後初仕事で任務を果たした喜びがあった。

ひたひたと潮のように進行してくる米軍に押されながら、米穀徴発の十日目に『バギオ街道の橋梁を工兵隊が爆破するので、正午までに渡河を完了せよ』との軍命令があり、部隊はバギオを目指して撤退を始めた。橋梁爆破の轟音を後ろに聞きながら、これから我が隊の死へのバギオロードが始まった。

私のいちばん長い日(5)

強行軍が続いたが、日を追うにつれて隊員の携行食糧も底をつき、飢えと疲労に倒れる者が出てきた。バギオ街道の路傍のあちこちに、あの双胴のロッキード戦闘機の機銃掃射でやられた友軍の兵や日本人婦女子の遺体が点在していた。

ふと路傍を見ると、乳飲み子と四、五歳くらいの子供を抱いた婦人が「隊長さんお願いですから水!水を下さい」と哀願している。

米軍の急追とロッキードの掃射、まさに『前門の狼・後門の虎』。婦女子は首都マニラを脱出し、ここに居た。何百キロと、よくぞここまで辿り着いたことよ。
しかし私はこれが婦女子が生きる限界であると思った。私は当番兵が予備の水筒を持っている事を知っていたので、自分の水を水筒ごと与えて「ここでは危ない、あちらだ、あちらだ」と、兵と一緒に街道から三百メートル離れたジャングルの入り口近い低地へ案内した。

「棒切れに手拭いを縛り付け、ここを動いてはいけない。敵が来ても低い姿勢でじっとして居りなさい。そのうち米軍が助けてくれる」

後ろ髪引かれる思いで別れたが、その時の悲愴な婦人の顔が目に焼き付いて離れることはないし、また、この婦女子は必ずや米軍に収客されて助かっていると固く信じている。

マニラ占領当時の在留邦人の商人が現地召集を受けて取り残された婦女子が、戦況悪化の為マニラから日本軍に付いて撤退行を共にしたことにこの悲劇が生まれた。
戦国時代武将が城や砦から落ちる時、再起を図るため、足手纏いな家子郎党の婦女子が自刃したり置き去りになった悲惨な歴史の情景をまざまざと彷彿させる。

 

昼はジャングルに入り、芋と南方新萄(=バナナ?)と水を探し、夜間は強硬軍をする日が幾日も続いた。

 

『フィリピンの軽井沢』『松の都』といわれたバギオに辿り着いた。
久し振りに見る松の線は目に沁みる美しさであったが、別荘も殆ど爆撃にやられ、市内に迫撃砲が落下し始めている。

 

軍司令部は既にバギオを捨て、更に奥地のバンバン(=タルラック州の村)に移動していた。