little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

私のいちばん長い日(5)

強行軍が続いたが、日を追うにつれて隊員の携行食糧も底をつき、飢えと疲労に倒れる者が出てきた。バギオ街道の路傍のあちこちに、あの双胴のロッキード戦闘機の機銃掃射でやられた友軍の兵や日本人婦女子の遺体が点在していた。

ふと路傍を見ると、乳飲み子と四、五歳くらいの子供を抱いた婦人が「隊長さんお願いですから水!水を下さい」と哀願している。

米軍の急追とロッキードの掃射、まさに『前門の狼・後門の虎』。婦女子は首都マニラを脱出し、ここに居た。何百キロと、よくぞここまで辿り着いたことよ。
しかし私はこれが婦女子が生きる限界であると思った。私は当番兵が予備の水筒を持っている事を知っていたので、自分の水を水筒ごと与えて「ここでは危ない、あちらだ、あちらだ」と、兵と一緒に街道から三百メートル離れたジャングルの入り口近い低地へ案内した。

「棒切れに手拭いを縛り付け、ここを動いてはいけない。敵が来ても低い姿勢でじっとして居りなさい。そのうち米軍が助けてくれる」

後ろ髪引かれる思いで別れたが、その時の悲愴な婦人の顔が目に焼き付いて離れることはないし、また、この婦女子は必ずや米軍に収客されて助かっていると固く信じている。

マニラ占領当時の在留邦人の商人が現地召集を受けて取り残された婦女子が、戦況悪化の為マニラから日本軍に付いて撤退行を共にしたことにこの悲劇が生まれた。
戦国時代武将が城や砦から落ちる時、再起を図るため、足手纏いな家子郎党の婦女子が自刃したり置き去りになった悲惨な歴史の情景をまざまざと彷彿させる。

 

昼はジャングルに入り、芋と南方新萄(=バナナ?)と水を探し、夜間は強硬軍をする日が幾日も続いた。

 

『フィリピンの軽井沢』『松の都』といわれたバギオに辿り着いた。
久し振りに見る松の線は目に沁みる美しさであったが、別荘も殆ど爆撃にやられ、市内に迫撃砲が落下し始めている。

 

軍司令部は既にバギオを捨て、更に奥地のバンバン(=タルラック州の村)に移動していた。