little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

私のいちばん長い日(6)

サクラサク峠に迫った第三十二隊長ギル少将は「水不足、暑さ、埃という三重苦の上に、洞穴から洞穴タコ壺からタコ壺に飛び移って攻撃する日本軍という最大の苦難に直面し、我が軍の前進は文字通りインチ単位のものでしかなかった」と回想するが、たとえ一インチずつでも前進には違いなかった。

我が隊は軍司令により第三、第四、第五中隊を他部隊に分遣、その指揮下に委ねた。

昼間はジャングルに潜み夜は移動するという行軍が続いたが、この頃から米(こめ)は無くたまに芋と南方新萄(=バナナ?)を茹でて食べる食事で、全員が疲労困憊し志気は衰え病人となった。四ヶ月間塩が全然無く、人間は塩気がなくなると足がガクガクになって歩行困難になる。川中島の合戦の戦国武将(武田信玄)が塩を敵将(上杉謙信)に送ったという故事は宜(むべ)なるかな(=いかにもそのとおりだなあ)と、戦国武将の奥深さに心温まる思いがした。

マラリアに罹ると一昼夜四十度の高熱が続き、昏睡状態に陥り、目蓋を上げてみると瞳孔が開いており、そのまま眠るが如く息を引き取る。兵隊の中に坊さんが三人あり数珠も持っていたので、お経をあげて谷間に丁重に葬った数は限らない。

ジャングルの中を行軍していると体が痛痒いので裸になってみると、山蛭(ヒル)がどこからともなく四、五匹ゲートルの下まで侵入して血膨れになっているのには閉口した。

 

六月頃になると戦闘部隊の生き残りの兵は指揮官を失い放浪生活を続け、食物だけを漁っている。

 

軍司令部がバンバン(=タルラック州の村)からキアンガン(=イフガオ州の町)に司令部を移したのは七月五日だったが、山下大将は十七日キアンガンを追われて更にカガヤン河谷の内懐深いバクダン(=キアンガンから4kmほど離れたシェレネバダ山脈にあるイゴロット族の居住域)に移動した。

 

マッカーサー元帥は既に六月二十八日、次のようなルソン島全作戦終了の声明を発表した。

「孤立したいくつかの作戦を除き、ここに米国史上最も激しく過酷な戦いのひとつである北部ルソン作戦の主要部分は、夢を閉じた。広さ四万四二〇平方マイル、人口八〇〇万人のルソン島は、完全に解放された。」

孤立した作戦とマッカーサー元帥は呼んだが、確かに山下司令部と直轄部隊は孤立していた。