little cloudberry JAM

昭和生まれの¥ENさんが平成の世を生きた軌跡を残す為だけに存在する誰得備忘録

私のいちばん長い日(4)

昭和二十年一月六日から米軍の艦戦機の爆撃が熾烈を極めて、艦砲射撃が始まった。サンフェルナンド港の建物は吹っ飛び、猛煙が辺り一帯を包んだ。私は初めて軍司令部がかねて想定していた米軍の敵前上陸がここリンガエン港であることを知った。時に山下司令部は、マニラ郊外部約十キロのフォートマッキンレー基地から、山嶽地帯の高地にあるフィリピン市民の避暑地バギオに移っていた。部隊は各中隊ごとに港の背面をふた山越したバギオに通ずる国道の基点付近に分散撤退を命じた。

 

一月九日朝、私と部隊本部はふた山目の頂上に立っていた。ひょいとリンガエン港の沖を見て思わず目を疑った。戦艦、空母巡洋艦駆逐艦、輸送船が、それこそ何百隻も停泊し、上陸用舟艇が雲霞の如く白波を蹴って港めがけてやって来る。

私は帝国海軍の観艦式の美しさに感動したことがあったが、それと同じように胸が押し潰される思いであった。今日見る敵の艦隊その物量の重圧の荘厳さに美学を感じ、危機感をも忘れて夢見心地であった。これが物量の美学という心持ちであった。

突然本部全員がひっくりかえった。伏せたのが爆風に吹っ飛んだのか分らない。私は鼓膜が破れる様な轟音に吹っ飛んだような気がする。一〇〇メートル先で艦砲が炸裂したのだ。周囲の太木が引き裂け、山は丸坊主になっていた。

港の守備隊は軍司令部が水際作戦の命令を受けていたが、砲撃弾の傘の下に進む米軍に対しては正に鎧袖一触、蟷螂の斧の如く立ち向かうも一気に殲滅された。

 

一月九日、三日間に及ぶ援護爆撃ののち、二千百隻の上陸用舟艇を連ねてリンガエン港に来攻米軍は、ウォルター・クルーガー中尉指揮の第六軍の主力で、第六、第四十三師団を基幹とする第一軍団第三十七、第四十師団から成る第十四軍団、他に予備の第二十五師団その他計二十万近くである。マッカーサー元帥(12月18日に元帥に任官された)はさらに後続として第三十三、第三十八、第四十一、第七十七歩兵師団、第十騎兵師団、ロバート・アイケルバーガー中将の第八軍の一部など約二十万人を用意していた。これは後日、軍司令部情報として私は知った。

私は部隊集結地において、作戦参謀長から初めての軍命令を受け取った。
「第十三開拓勤務隊長に、敵信仰前面における各部落(=集落)において、米穀を追加で徴発すべし。輸送部隊にすべし。輸送司令部に引き渡すべし」

各中隊ごとに軍票(ペソ)の札束で相当量の米穀を徴発した。輸送がきかず半分残したのは惜しかったが、上陸後初仕事で任務を果たした喜びがあった。

ひたひたと潮のように進行してくる米軍に押されながら、米穀徴発の十日目に『バギオ街道の橋梁を工兵隊が爆破するので、正午までに渡河を完了せよ』との軍命令があり、部隊はバギオを目指して撤退を始めた。橋梁爆破の轟音を後ろに聞きながら、これから我が隊の死へのバギオロードが始まった。